MASA もう一つのプロフィール

東京で3年保育の幼稚園に通うが、2年で中退。小学校に上がる迄の一年間オルガン教室に通う。

小学校1年の時無口だったが、2年の時一転。それから卒業迄通知表に「私語が多い」と書かれ続ける。

中学校で女子のスコート姿に引かれテニス部に入部。
練習嫌いだったので体力が付かず、「3セットの藤原」と呼ばれる。
※2セットしか体力が持たないので、3セットの試合でしか勝てなかった。

練習もせずに重いラケットを振り回し、テニス・エルボーになる。

「可愛い女の子が多い」と定評の有った高校を受験し、見事合格。
綺麗な先輩が多かった吹奏楽部に入部。
サックスを希望したが、口の上手い先輩に騙されクラリネットを吹きはじめる。

勉強もせず遊び続け、担任と進路指導教諭に「大学進学は無理」と言われ、苦し紛れに「音大に行きます。」と宣言。 負けず嫌いの性格から、一度口にした事を引っ込められず、仕方なく練習開始。

田中保人先生、小笠原長孝先生のお陰で国立音大受験まで漕ぎ着けるが、見事落第。
1年間尚美高等音楽学院で大橋幸夫先生の猛特訓を受ける。

翌年、何とか国立音大に合格するが、慣れない猛練習でテニス・エルボーの肘に負担をかけてしまい、神経を圧迫、右手に麻痺が起こる。
素人判断で自分の症状を軽く見、すぐに病院に行かず練習を続け、重度の腱鞘炎になる。

半年以上の治療の結果、神経の圧迫は完治したが、腱鞘炎は完治せず。
医者に楽器演奏を諦める様説得される。

教育実習に行った学校の校長及び多くの人の勧めで横浜市の教員採用試験を受験。
受かる気が無かったにも関わらず、試験中はムキになり、1次、2次と試験に合格、面接試験にまで行ってしまう。
面接試験で正直に「教員には成りたく無い。」と発言し、試験官が激怒。
感情的になった試験官に対し、1時間以上教員批判をする。
後日、横浜教育庁に呼び出される。

叱られると思っていた担当者に「君の様な人間に教員になって欲しい。」とおだてられ「3年間なら。」とあっさり承諾。
3年間横浜市の音楽教諭を勤める。

約束の3年間教員を勤めている間にも右手の麻痺は進行を続け、軽い右半身麻痺になる。
当時の副校長に教員を続けるよう説得されるが退職を決意。
この説得の時、一晩に二人でお銚子150本を平らげ初の二日酔い体験
二日酔いは(今のところ)この時のみ
この後日本酒が飲めなくなる。

日本での再起を試みたが、一度ポンコツになってしまった音楽家は初 めから相手にしてくれず断念。
アメリカへの留学を決意。音楽留学の準備の為、ボストン大学に語学留学。

日本では異端児だった自分がアメリカではノーマルな人間として扱ってもらえ、居心地の良さから永住を希望したが経済的理由で帰国。
その後、旅行程度の渡米ばかりだったが2008年YMCAの親善演奏会の為NYで招待演奏をする。
※この辺りの話は「サックスなんか難しくない!」の「私は天才?」を読んでみて下さい。

自分の経験を趣味で音楽を楽しんでいる方達の役に立てる為にヤマハPMS講師となるが、無名の自分の力では何もできない事を痛感する。

少しでも多くの方に私を知っていただく為に、演奏活動に専念する事を決意し、PMS講師を退職し、MASA Musicを立ち上げる。
masamusic.comと言うドメインを取得し、ホームページをリニューアル。

この時、音楽教室でのレッスンも辞めるつもりでいたが、各教室及び多くの方達の強い要望でレッスンを継続。

尊敬する人は高田純次さん。

2020年には還暦を迎えますが、まだまだ音楽を楽しもうと思っています。


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